ノートを持って想起する

こんばんは。クワイエットプレイスを見てからカキフライ定食を食って帰ってきました。超眠たい。

 

今日のお題は何にしようかと思ったけど、そういえば付箋に張ったメモに書くこと決めて書いてたのをふと思い出した。

 

片付けあるある

昼頃に部屋の片づけをしてると大学時代にやった課題プリントやら去年読んだ本のまとめとか書いてるやつがどさっと出てきてですね。「おっ、こいつはやべぇな。掃除しないと」とか思ったわけですよ。

 

するとですね、本片づけてる時のあるあるだけど、片付けるはずが読み始めちゃって「おや、もうこんな時間か」みたいになることない?(僕はなった)

 

それになっちゃって、でもよく見返したら「この時の自分は何を思ってこれを書いてたんだろう」とか思ってしまったところで、「あ、今日のテーマはこれにしよう」と思ったわけです。

 

板書から始まる

「まじめにやってるのを評価してほしいですアピール」

学校の義務教育で無意識のうちに「ノートはきれいに黒板に近い形で書かなければならない」って刷り込まれてしまったので、いつの時代のノートを見返してもそこそこ体裁だけは整っている。(でも中学ぐらいの時はノートなんてロクに書いてなかったようにも思う)

 

でも、美しいだけで欠片も頭に残ってないノートに価値なんてないし、提出するとそれが成績の評価対象に含まれる点に関しては疑問が残るところ。

 

行動主義の観点から考えるとその辺にしかテスト以外の点数で評価できる点がないのは理解できないこともない。しかし、だからと言ってその教科の点数として換算されるためだけに板書を写経のように書き写すのはよくわからないし、見返したときにある程度きれいに感じるだけの紙束の生み出された意味なんてもっとよく分からない。それらを生み出すために毎時間50分座ってるだけなら考え直したほうがいいのでは?というのが持論。

 

スタンドプレーしてる教員がこっち向いてしゃべってるとき以外はぶっちゃけ「だるまさんが転んだゲーム」をしてるだけなので、情報機器がこれだけ発達した現代であれば、そもそも一か所に40人近くの人間を詰め込む必要もないだろうし、振り返るまでに何されたって不思議でない環境設定をしてるにもかかわらず、教員はそれを見つけると「まじめにしてないとイカン」みたいな話は、お互いにとって非生産的だ。

 

板書が頭に入らない理由って、結局は自分の言葉でわからないことや用語をかみ砕いて説明していないから(もしくは、説明できるようになるための課題や環境設定が義務教育の期間内で設定されていない)ただの写経みたいに見えてしまうんだろうなぁと思うと。しかもそれが評価の対象になるから余計に「わかんないけど書いて出したらとりあえず点数にはなるし、あなたの授業ちゃんと聞いてますよ」みたいな感じでワンサイドなだるまさんが転んだゲームが展開される。とても不毛。

 

おしまい。少しだけドラガリやって本読もう。